わたしの生理 Vol.042 - 重い生理と、原因不明の不調が続いた40代 使わなかった「卵」も私の歴史 閉経がもたらした解放感
中村香子 60歳 大学教員
初経:小学6年生(12歳)
現在の平均生理日数:なし(閉経)
現在の平均生理周期:なし(閉経)
現在使っているサニタリーグッズ:なし
- 生理はどんな日ですか?
眠気との闘い
- 生理と聞いて浮かぶイメージは?
どんより
- ここから、生理を軸にご自身の半生をふりかえっていきたいと思います。初経はいつですか?どんな風に覚えていますか?
初経は小学校6年生の時でした。クラスの子たちが次々に初経を迎えていたので、「私にもそろそろ来るのかな」と思っていたら、本当に来ました。私にとって、初経は嬉しくない出来事で、なんとなく「次のステージに行くのが嫌だ」という感覚がありました。
結局、母親に生理が来たことを伝えて、ナプキンを渡され、使い方を教えてもらいました。50年近く前の当時のナプキンは、種類も少なく質も低く、羽なしのタイプしかありませんでした。
小学生の頃は、白いショーツの上に紺色ブルマを重ねて履いていたのですが、母親がブルマにポケットを付けてくれてました。ナプキンを入れるためのポケットで、持ち歩かなくていいように、配慮してくれたんです。
家族と生理の話はしませんでした。自分も言わなかったし、母も何も言いませんでしたね。お祝いも特になかったですし、むしろなくてよかったと思っていました。
- 中学・高校生の頃の生理はどのようなものでしたか?
2回目の生理が来たのは中学1年生の夏休み、家族旅行をしているときでした。初経から半年以上、生理が来なかったんです。旅行先でトイレに行ったときに生理に気づいて、慌てて母に伝えたら「ほら、油断してるから」と言われ、母と一緒にナプキンを買いに行って凌いだ記憶があります。
以降の生理は、規則正しく来るようになりました。初経後に生理がしばらく来なかったときはそれを喜んでいましたが、その頃はクラスのほとんどの子にすでに生理があったので、受け入れました。
中高生時代は、生理を重く感じていなかったと思います。ただ、貧血症状はありました。生理になると私の顔色はかなり悪くなるようで、保健の先生が校内ですれ違うたびに、あっかんべーと下まぶたを見せるようにジェスチャーして、私の貧血チェックをしていました。とはいえ特に自覚症状はなかったです。
母は、私の鉄分補給のために、週に何度もレバーを使った料理を出してくれました。あまりにレバーばかりで、あの頃はレバーを見るのも嫌でした。
経血量は多い方だったと思います。中学生の頃から多めで、高校生になってさらに増えていたかもしれません。生理痛は「ずん」と重い感じはありましたが、すごくつらいというわけではなかったと思います。高校生での変化はそれくらいでした。
- 高校卒業後はどのような道に進まれましたか?生理の変化はありましたか?
大学に進学しました。それまでは運動部に入ったこともなかったのですが、スポーツをしよう!と思い立ち、スキーを始めました。経血量が多かったので、スキーの時はナプキンだと取り替えが間に合わないと思い、この頃からタンポンを使うようになりました。
といっても初めてタンポンを試したのは、もっと前。中学生のときです。友達に勧められて試してみたのですが、その頃はまだアプリケーターが付いていない時代で「絶対無理!」と諦めました。でも、大学生になって数年ぶりに使ってみたときはアプリケーター付きでスムーズに使うことができて、タンポンの進化に驚きました。革命が起きたと思いました。それからはタンポンとナプキンを組み合わせることが当たり前になりました。
- その後はどんな道に進みましたか?生理や体調の変化はありましたか?
大学を卒業して、外資系IT企業に新卒で入社、システムエンジニアになりました。土日も休みがなくとにかく激務だったうえに、仕事のあとは、お酒を飲む日々でした。
この頃、生理にも変化がありました。生理中の眠気が異常な程強く、電車の中などで、ハッとすると意識が飛んでいたりしていました。
経血量もさらに増えて、日中でもタンポンと夜用ナプキンの併用が当たり前でした。日によって量はばらつきがあり、急にドバッと激しい出血があったり、大きな塊の経血が出ることもよくありました。振り返ってみると、この頃からおそらく子宮筋腫があったと思います。
20代前半に健康診断で、貧血で要検査判定が出ました。これがきっかけで、人生で初めて婦人科を受診しました。婦人科では問診だけして、鉄剤を出されて終わりだったのですが、これが驚きでした。鉄剤を飲んだらすごく元気になるんです。魔法の薬だと思いました。ただ、元々、薬嫌いでしたし、空腹時に鉄材を飲んで吐いてしまったりしたこともあり、処方された薬を飲み終えておしまい。忙しくて再診する暇もありませんでした。
- その生活はいつまで続きましたか?
6年間続けて、28歳のときに会社を辞めて、ケニアへ行きました。ケニアへは一度、短期間の旅行をしたことがあり、どうしてもまた長期で行きたいと思っていました。
最初は学生ビザを取り、現地でスワヒリ語を学びました。最初の3ヶ月は学校、残りの3ヶ月をアフリカ放浪の6ヶ月の計画で旅立ちましたが、もっと長く滞在したいと思い、復路の航空券を捨て、現地での仕事も見つけ、結果的には3年間ケニアで過ごしました。ケニアには、途方もない魅力を感じていました。
現地の生理用品は質が低いと聞いていたので、予定期間の6ヶ月分は日本から持参していたのですが、3年分はさすがに持ち合わせておらず、日本から人が来る際は、日本の生理用品を持ってきてもらうのが、一番の頼み事でした。さらに、日本に帰国する人から余った日本の生理用品をもらって、それを安全策として一番多い日に使って、量の少ない日は現地調達の生理用品を使う工夫をして過ごしました。
- 3年間のケニア生活のあとは、どうなっていくんですか?
日本に帰国して大学院へ進学しました。ケニアで出会った民族について研究することにしました。ケニアに長期でフィールドワークへ行くことも多く、とても充実した日々でした。この民族については、現在も研究を続けています。
大学院生時代に、話しやすい婦人科の女性医師との出会いがありました。このときにエコー検査を受け、子宮筋腫があることが判明しました。医師からはピルによる治療を提案されましたが、直後からケニアに1年間行く予定だったので「鉄剤でさえ嫌なのに、副作用の可能性があるピルを飲んでケニアで何かあったら...」と思い、断ってしまったんです。今から思えば飲んでおけばよかったと少し後悔しています。それから子宮筋腫は、年に一回検査するようにと言われました。
経血量もさらに増えていました。生理痛もありましたが、みんな同じだと思っていたので気に留めることはありませんでした。ごく最近、生理痛を体験できるイベントで他の人と痛みを比べられる機会があったのですが、このときに初めて、自分の痛みは、かなり重い方だったのだと気づきました。
- 40代になって生理や体調の変化はありましたか?
ありました。40代前半は、母親の看病や自分の結婚など大きな環境の変化が重なったこともあってか、体調に影響が出始めました。
まず母に癌がみつかり闘病することになりました。私は、大学と住居のある京都と実家の東京との往復を繰り返す生活になりました。既に博士論文は書き終わっていましたが、大学院に研究員として在籍しながら、5、6つの大学で非常勤講師を掛け持ちして、生計を立てていて、夜行バスを駆使して週末は京都と東京を行き来する、なかなかハードな生活でした。
母親の病気をきっかけに、結婚もしました。特に独身を貫こうと思っていたわけではないのですが、人生の中にどう結婚を紛れ込ませていいのか分からず、結果的に40代になっていたのです。母を安心させたい気持ちもあって結婚をしようと一念発起してお見合いもしましたが、「結婚したら研究は辞めるんですよね?」と言われ、アフリカに長期滞在する人を妻にしようと考える人なんかいないと諦めかけていました。そんな中、「アフリカに行き続けることを許容してくれる人はこの人しかいない」と友人に諭され、元々知り合いだった同じ研究者の人と結婚しました。
母親が亡くなったのは、結婚して約1年後、私が43歳の時でした。母親の葬儀で叔母から「あなた、このあとしばらくは体調に気をつけなさい」と予言されたことを覚えています。「今はまだ気を張っているけど、大切な人を見送ったストレスが、徐々に身体に出てくるから気をつけなさい」という意味で、まさにその通りでした。
43、44歳ぐらいの頃に、まず、蕁麻疹から始まりました。病院に行っても原因は不明で、対処療法として薬を飲んでいました。その他にも、急に夜中に吐いたり、朝起きようとしたらめまいで立ち上がれないといった症状も出てきました。さらに喘息や腰痛など一難去ってまた一難、という感じで、次々に不調が押し寄せ、健康だった私はどこへ行ったのだろうという状態でした。不調の時期は約3年ほど続いたでしょうか。40代の終わりぐらいで徐々に落ち着いていきました。
そして、40代後半から閉経にかけて、生理にも変化がありました。
- 40代後半はどんな変化があったんですか?
長年28〜30日で規則正しかった生理周期が、26日周期くらいに短くなっていきました。そして、ただでさえ多かった経血量は、さらに多くなりました。ドバッと一気に出る、座っていられないほどの多量の出血が何度かあったのを覚えています。この頃も変わらず、タンポンと夜用ナプキンの併用をしていました。
子宮筋腫は、少しずつ大きくなっていると医師から言われていましたが、「もうすぐ閉経だからそこまで持ちこたえて。その後は小さくなるから大丈夫」とも言われ、手術の選択肢は取りませんでした。
- その後、閉経をされましたか?
はい、50、51歳の頃に閉経しました。ちょうど私自身の閉経と同じタイミングで、私が研究しているケニアの民族の高齢女性の役割をテーマにした論文を執筆しました。その民族では、女性は自分の第一子が成人すると同時に地位が上がり、身につける装飾品も変わります。約20年間続けてきた出産と子育てから緩やかに退き、その上のステージへと地位が向上するわけですが、そこにたどりついた女性たちは、社会を牛耳っている長老(年長男性)たちとも対等に話し、男女を問わず若者たちの相談役になったりと、活躍の場が一気に広がります。一般的には、閉経というと「喪失」としてとらえられがちですが、彼女たちにとっては「祝福」に満ちた新たな時代の始まりで、その姿からは日本で生きる女性にとっても学ぶことがあると思いました。
- 生理をふりかえって、いま何を思いますか?
我ながら、よくこなしてきたと思います。毎月あれだけの血を流し、貧血にもなって、仕事や生活ともなんとか折り合いをつけながらやってきたわけなので。生理がなくなってからは、生理がないと、こんなにもスッキリするんだと、驚きです。
30代後半頃でしょうか。同年代の友人とは「また1年間で12個、卵を無駄にしちゃいましたね」なんて冗談を言い合っていた時期もありました。「あと何個残っているんだろうね」「でも数えたくはないね」って。自分の人生のなかで「卵を使わない」と決めた瞬間があったわけではないんです。でも、結果として使わなかった。生理が終わった今は、そのことも含めて完全に吹っ切れている感覚があります。
それから、ジェンダーの面でも、生理や「女性であること」についてはずっとテーマだったように思います。世代的にも、新卒で就職したときは、男女雇用機会均等法が制定されたばかりの時代で、「女性であることを理由に甘えていると思われたくない」「自身の女性性を打ち消したい」とどこかで思っていました。社会で男性と同様に扱われるためには、自分の生理が重いことを自分自身が認めるわけにはいかない、といった気持ちがあったと思います。
つい先日、還暦を迎えたときに、誕生日が1日違いの長年の友人とスパークリングワインでお祝いをしました。「還暦にあたり一言」と言われて出てきたのが、「一回まわって、全部チャラ。1周回ってゼロに戻る(還る)」という言葉でした。成し遂げたこと、成し遂げられなかったこと、人それぞれにいろいろあります。でも、この年齢になると、すでに退職していたり、子供も巣立っていたりして、手にした気になっていたものが、はかないものであったと気づきます。「還暦」という言葉の通り、ふりだしに戻って何も持たずに二巡目のスタートです。
閉経のときに体調がすっきりとした感覚がありましたが、還暦をむかえ心身ともにさらにすっきりと解放されました。所属や肩書きのような、以前からあまり好きではなかったラベルや枠組みを気にせず、また、性別も気にせずに、誰とでもありのままの人間と人間として付き合えるステージに到達できた、という実感があります。ケニアの女性たちの「祝福」のステージにようやくたどり着けたような・・・。「加齢」って結構いいものです。
注釈:「わたしの生理」では、いろんな世代・環境の方が、生理とどのように向き合って暮らしてきたのか記録し共有することで、隠されがちな生理を考えて話すきっかけにしたいと取り組んでいます。特定の商品やサービスまたは対処法を推奨するものではありません。掲載されている内容はその方個人の体験ですので、気になる症状がある際はご自身で医療機関にご相談ください。
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