Vol.019 - 生理を隠さない子育て 子どもに育まれていく 思いやりや理解する心
cumi 41歳 スリフトストア主宰・SISIFILLE team member
初経:小学校5年生(11歳)
現在の平均生理日数:5日
現在の平均生理周期:28日
現在使っている生理用品:オーガニックコットンナプキン、布ナプキン、吸水ショーツ
- 生理はどんな日?
自分の身体と向き合う日、無理せず自分を労わる日、自然とのつながりを感じる日
- 生理と聞いて浮かぶイメージは?
浄化、月、休息
- ここから、生理を軸にご自身の半生をふりかえっていきたいと思います。初経はいつですか?どんな風に覚えていますか?
小学5年生のときです。当時、父の仕事でインドネシアのスラバヤに住んでいて、現地にある日本人学校に通っていました。小中一貫校で全校生徒が50人くらい、1学年1クラスの小さな学校でした。私の学年はその時5人で、先生は男性、クラスメイトは全員男の子でした。そんな環境だったこともあり、クラスの子たちと毎日外で走り回り、泥んこになって遊ぶ日々を過ごしていました。
でも初経を迎えて、友達との間に境界線ができたような気持ちになりました。先生に「おめでとう」と言われて、なにがおめでたいのかが理解できず、みんなと一緒に入っていたプールに入れないことももどかしくて、モヤモヤした苛立ちが強かった記憶が残っています。それまで同じだと思っていた男の子たちと自分が違うんだということを突きつけられて、男女の身体の違いを意識し始めたのもその頃だと思います。
わたしに生理がきたことを先生はいつの間にか知っていました。インドネシアは一年を通して夏なので毎週水泳の授業があり、生理で休むこともあるだろうと母があらかじめ伝えてくれていたんだと思います。先生がわたしにおめでとうの言葉をかけてくれたときも、配慮をしてくれたんだろうなという空気感があったことをすごく覚えています。周りに誰もいないときに、そっと言ってくれたんですよね。その時は恥ずかしくて上手くリアクションできなかったんですけど、今になってその優しさに感謝しています。
小学6年生のときに帰国して、日本の小学校へ転入して卒業、そのまま日本の中学校へ進学しました。中学生の生理で覚えているのは、生理を「アレの日」や「ケチャップ」と、友達同士で呼んでいたことです。「生理」という言葉を公に使ってはいけない空気感がすごくあったと思います。言葉以外にも、今生理中だということを周りに知られない方がいいという雰囲気がありました。ナプキンが入ったポーチをトイレに持っていくと生理だと気づかれてしまうので、カバンの中でナプキンをジャージや制服の袖にササっと入れて、ポーチを持たずにトイレに行って取り替えていたことが印象に残っています。
-高校生になってどう変わっていきましたか?
高校生になってから生理痛が重くなりました。おなかが痛くて何もする気にならなかったり、生理初日や二日目のつらいときは学校を休んだり、早退したこともありましたね。
あとは、今みたいに経血量や生理周期を把握していなかったこともあって、よくショーツやシーツを経血で汚していました。うちの家ではいつからか、自分の下着は自分で手洗いしてから洗濯機に入れる習慣があったので、ショーツを汚したときも自然と自分で洗っていました。
-高校卒業以降〜20代は、どんな生理の日々でしたか?
遊びと仕事、どちらも全力でとても忙しい時期で、やりたいことがいっぱいあったので、生理はまるで邪魔なものであるかのように扱っていました。生理痛は薬で抑え込み、つらくても我慢して突っ走るみたいな。わたしは貧血持ちで、バイト中に倒れて病院に運ばれたことも二回くらいあって。でも、身体の不調も見て見ぬふりをしてやり過ごしていました。
大学を卒業して、アパレル会社に就職。毎日夜遅くまで仕事をして、そこから深夜、時には朝まで飲んだり遊んだりする生活でした。今思うとかなりハードな日々だったと思うのですが、25歳くらいの頃にその働き方に疑問を持つようになりました。仕事に対するモチベーションを失いかけたタイミングでもあって、環境を変えたいという気持ちが湧いてきたんです。そのときに、同棲していた彼(現在の夫)に「結婚する?しないなら一度距離を置きたい」って、わたしから話しました。元々将来を見据えて一緒に暮らしていたのですが、いつの間にか同棲期間が長引いていたこともあったし、環境を変えたい気持ちもあり、それをきっかけに話し合いの末、結婚しました。
その後に夫から「アメリカで働きたい」と言われ、わたしも環境を変えたい気持ちが続いていたので「いいね!行こう!」と背中を押して、勤め先を辞めてふたりでアメリカに渡りました。そのときわたしは27歳。周りの人達からは「せっかくキャリアも積んでいるのにもったいない」と言われたんですが、わたしの気持ちとしてはそんなことよりもとにかく自分の身を置く環境を変えたいという気持ちが強くあり、そこから揺るがなかったです。
アメリカでの一年間、私は働かずにボランティアをしながらスローに暮らして、今後どうやって暮らしていきたいかなど、自分自身や夫との人生をいろいろと考える時間を過ごしました。
実は大学生のときに子どもを中絶したことがあります。元々子どもが大好きだったので産みたい気持ちがあったものの、まだまだやりたいこともあって、子どもを抱えながらそれをやっていく自信がもてず、結局産む選択をすることできませんでした。手術はあっというまに終わり、次の日からまるで何事もなかったかのようにバイトをしていました。親しい一部の友人以外、家族にも誰にも言わずに殻に閉じこもっていました。罪悪感や苦しみをこれからもずっとひとりで抱えていくんだと思っていましたし、すごく孤独でした。それまで漠然と抱いていた出産願望が一気に崩れて、子どもを持つ未来を描くことができなくなりました。
でも数年が経ち、渡米前に闘病していた父が他界したことや東日本大震災が起きたことで、命について考えさせられる機会が多くあり、少しずつ自分の気持ちに変化が現れはじめました。その後アメリカでのボランティア活動を通じて、自然豊かな場所で子どもやその家族と触れ合う時間を持ったことで、今の自分だったら、子どもを産み、育てることができるかもしれないと思えるようになったんです。そんな心境の変化を感じながら、アメリカでの一年を終えて28歳のときに帰国しました。
帰国後は、アメリカで出合ったオーガニックコットンやその背景のことを学びながら服づくりに関わる仕事を続けていきたいと思い、オーガニックコットンを扱う会社で働くことになりました。仕事をがんばりたい気持ちと同時に、再び芽生えた子どもを産み育てたいという気持ちも置き去りにすることができず、夫に「今すぐ子どもがほしい」と伝えたんです。できるかどうかわからないけどやってみようと、夫は受け入れてくれて、その後子どもを授り、30歳で出産しました。
-30代になってから、変化はありましたか?
出産後の一時期、体質がびっくりするくらい変わりました。生理が再開する前のことなのですが、産後少ししてから、かぶれやかゆみに悩まされるようになりました。子どもを産む以前は肌トラブルと無縁だったので驚きました。授乳パッドがかゆくてたまらず湿疹も出るという状況になり、今まで普通に使えていたものも使えなくなってしまったんです。そのときに、オーガニックコットンの端切れを胸に当ててみたら、すごく心地よくて。かぶれやかゆみから解放され、身体が喜ぶ肌ざわりがあることを知りました。
身体が変化していることを実際に体感して、これからはその変化を受け入れていくことが必要だと思いました。これがきっかけで、自分から出ているサインを見逃さずにいようという意識が芽生えました。
生理が再開してからは布ナプキンを使うようになったのですが、思っていたよりもずっと快適で、身体がほぐれるような使い心地でした。でも赤ちゃんのケアをしながら布ナプキンを使う大変さも感じていて...。そんな時、勤めていた会社で数年間温めていたオーガニックコットンの使いきりナプキンの企画を進めることになり、ブランドの立ち上げを担うことになりました。自分が本当に使いたいと思えるものを企画開発できることがうれしかったです。そして、2015年にSISIFILLEを立ち上げました。
その後第二子を出産し、その一年後に再びアメリカ・サンフランシスコベイエリアへ。渡米してから6年が経ちました。移住のタイミングで一度仕事を辞めて子どもたちと過ごす生活が軸になって、生理のときは無理せず休む、ゆっくりするというリズムにどんどんシフトしていきました。
アメリカに移住して、夫以外に気兼ねなく頼れる親族がいない環境になったことやワンオペで育児をする時間が長い状況で、体調を崩した時や生理でつらいときも逃げ場がないので、まずは我慢することをやめようと思い、それから自分の状態や感情を素直に家族に伝える習慣ができていきました。伝えるというより感情が爆発しているような時もありますが。(笑)
生理のときに気分がすぐれなくて子どもたちに不機嫌に接してしまったときも、「昨日つらくあたっちゃったのは生理で体調が悪かったからなんだ、ごめんね」と言葉にするようになりました。
子どもたちも最初はよくわからなかったと思うのですが、段階的に生理にどんな役割があるか、どういう症状があるかなど、詳しく説明していくようにしたんです。そうすると子どもたちの生理への理解度もだんだんと上がっていきました。特に11歳(小学5年生)の長男は、「女の人の生理は赤ちゃんをつくるために必要なんだよね」とか「ママ、生理だから座ってて」「お手伝いしようか」って言ってくれたり、よく気にかけてくれたりします。子どもがお腹を痛がると、わたしは温めたタオルをおなかに当てるのですが、それを長男が真似して、わたしが生理痛で横になっていると同じようにしてくれるんです。
生理のことを小さいうちから隠さずに伝えていくことは、生理を体験することがない男の子にもとても良い影響があるんじゃないかと思います。最近息子と性教育の話をはじめたのですが、そこでこれまで伝えてきた生理を紐づけることができて、息子も納得していた様子でした。自分自身が生理になることはないからこそ、女性が生理のときにどんな様子なのかを身近な母親を通して見て感じとる。これを小さい頃に体験することは将来、パートナーや周りの誰かを支えることにもつながるんじゃないかと思うんです。
-40代になってから、変化はありましたか?
最近になって少しずつ身体が変わっていることを感じています。睡眠については、それまでいつでもどこでも寝れるタイプだったのに、最近は夜中に目が覚めてしまったり、一度起きると寝つけなくなってしまったり、夜通し眠れない日が増えました。
あと、生理前や排卵日前後の感情の揺れ方が激しく、悲観的にもなりやすくなっていると思います。そういった気分のゆらぎの対処法としては、なるべく誰かにそのモヤモヤを話すこと。ついふさぎこみそうになるのですが、友達に直接会えなくても電話でチェックインし合い、お互いの近況を共有することを意識して習慣化しています。そうするとすごく気持ちが楽になるし、一呼吸することで気持ちの切り替えにもなります。
-生理をふりかえって、いま何を思いますか?
わたしの生理の捉え方は生活環境やリズムによって著しく変化したなって思います。生理は邪魔なものと思っていた自分が、今はそれを神秘的なものだと感じているんです。世界では一部の女性たちが経血を土地に還す活動をしていて、それは自分自身が地球とのつながりを感じるためであったり、自然に栄養を注ぐ、還元するという意図があったり目的は様々。先住民の人たちがそうしていたように、今改めて生理を神聖なものとして大切にしようとする動きが強まっています。私は自然豊かな今の土地で暮らすようになってから、森や人との出会いを通して、自分の身体と自然とのつながりをより敏感に感じとるようになりました。命を授かるという以前に、まずは子宮を持っている喜びを感じられるといいなって思いますし、これからを生きる子どもたちにもそういった視点を早い時期に知ることで自分の身体を大事にしてほしいと願います。
長い間中絶した経験を引きずり、自分ひとりで抱え込んできましたが、自分に娘が生まれて、そのことをこの先彼女にどう伝えることが良いのか考えることがあります。産まない選択があるとはいえ、中絶したことは病院で検査をしたり出産したりするたびに書類に書き続けなければいけない。ずっと自分の人生に残ることではあります。権利があると言っても気持ちを割り切ることはなかなか難しい。だからこそ子どもたちが孤独になることがないように、私は寄り添える大人でありたいって思います。子どもたちとは性のことをはじめ、センシティブなことを話せる関係でありたい。その中で、肯定できることばかりではなかった自分の経験を、子どもたちとコミュニケーションをとる中でいかしていきたいです。そう思うと、母親が自分の生理を子どもと共有することは、親子の関係性を育むための一つの切り口にもなるかもしれないですね。
「わたしの生理」では、いろんな世代・環境の方が、生理とどのように向き合って暮らしてきたのか記録し共有することで、隠されがちな生理を考えて話すきっかけにしたいと取り組んでいます。特定の商品やサービスまたは対処法を推奨するものではありません。掲載されている内容はその方個人の体験ですので、気になる症状がある際はご自身で医療機関にご相談ください。
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