わたしの生理

生理の状況や感じ方は、人それぞれ。表に出てきづらいデリケートでプライベートなことだからこそ、ひとりひとりの生理の経験、心の声に耳を傾けることで、自分を大切にするきっかけに。生理を通して半生を綴るインタビュー。

わたしの生理 Vol.059 - 障がいのある子どもと 家族と周囲で支え合ってきた35年 うつや更年期を越えて

MASAKO 63歳 美容家

初経:中学2年生(13歳)

現在の平均生理日数:なし

現在の平均生理周期:なし

生理はどんなものでしたか?

子どもを産むための体作り

生理と聞いて浮かぶイメージは?

しんどさ、つらさのあるもの


はじめての生理はいつでしたか?どんなはじまりでしたか?

初経は中学2年生、13歳です。小さい頃から背が低く、胸もペタンコでした。初経が来た年はちょうど成長期で、1年で身長が15センチ伸び、ようやく生理が来ました

周りの女の子たちは小学生から生理が来ていて「もう来た?」と、友達同士で話すこともあり、自分だけ来ないことは不安でした。だから初経を迎えて、少しホッとしたことを覚えています。

初経に気づいたのは自宅にいるときです。おりものに少し赤いものが混ざっているのを見て、すぐ母に伝えました。「ようやく来たね〜」と、母も喜んでいました。

今から50年前のことでしたが、当時から使い捨てナプキンはありました。でも種類は少なくて、夜用のような長いタイプはまだありませんでした。だから、夜は短いナプキンを2、3枚重ねて使っていました。それでも漏れて、シーツを汚してしまうことは頻繁にあったと思います。母からは、自分で経血が付いた部分をつまみ洗いしなさいと言われて、その通りにしていました。母に経血が漏れたことを伝えることを恥ずかしいとは特に感じていませんでした。仕方ないですからね。


中学生の頃、生理はどんなものでしたか?

地元の公立校に進学し、3年間水泳部でした。生理と重なったときは、部活を欠席するのが通常でした。顧問は男性教師でしたが「生理なので休みます」と直接はっきり伝えていました。流石に恥ずかしかったけれど、仕方ないですしね。

生理周期はずっと安定していて、量もそれほど多くなく、生理による体調のトラブルはありませんでした。


高校生の頃、生理との付き合いはどう変わりましたか?

高校は私立の女子校に進学、部活は卓球部に入りました。この頃から、生理中にお腹が痛くなったり、下痢になることが増えました。

この頃の生理で覚えていることといえば、タンポンを使い始めたことです。友達に「試合のとき便利やで」とすすめられたことがきっかけでした。母はタンポンを一切使っておらず、私が「タンポンを使ってみたい」と言うと、「お母さん、買うの恥ずかしいから、ほしいなら自分で買って」と言われて、薬局に自分で買いに行ったことを覚えています。使い方も友達に教えてもらいました。使ってみると、漏れにくく動きやすいことがとても楽に感じて、それからはナプキンと併用するようになりました。


大学生の頃、生理や体調に変化はありましたか?

高校を卒業して、地元の女子大に進学しました。当時、大学進学率は低く、女性は4年制よりも短大に進む人が多い時代でした。私は母から「高校受験に失敗したんだから、大学で挽回しなさい」と言われて、4年制の大学に進むことにしました。

学部は家政学部です。料理や裁縫など、生活全般に関わる基礎を幅広く学びました。家庭科の教職を取れる内容だったので、教育実習にも行き、中学と高校の教員免許も取りました。

大学に入ってから、生理が重くなりました。それまで3〜4日間で終わっていたのが、7日続くようになり、量も増えました。お腹の痛みもあって鎮痛薬を飲むのがルーティーンになりました。薬の影響もあってか、頭がぼーっとしたり、眠気が強く出てしまい、日常的にしていた車の運転を、生理のときは、控えるように気を付けるようになりました。


就職した頃、生理とどう向き合っていましたか?

大学卒業後は、バルブを扱う会社の営業職として働き始めました。車を運転して一人で取引先の工場を回り、商品を売り込む仕事です。人と話すことが好きだったし、扱っている製品の質も高く、成績がよかったので、とてもやりがいがあって楽しかったです。

生理のときは変わらず、頭がぼーっとしたり、眠気が強くて、判断力が落ちている自覚がありました。自分で運転して営業先を回る仕事だったので、万が一、事故を起こしたらまずいと思って、生理が重い日は会社に電話をして休んでいました。

当時から生理休暇はあったかもしれないのですが、制度があるから活用するというわけでもなく、事故を起こしたくないので自分の判断で、毎月休みを取っていました。その様子を見て、生理が重い周りの女性社員も休むようになりましたね。

その会社には一年間勤めて、転職しました。理由は、仕事の成果を先輩に横取りされたことがきっかけです。抗議しても受け入れてもらえず、だったら辞めてやる!と思って、あっさり辞めました。

転職先は、セレブ向けの総合病院で、仕事内容は受付事務です。落ち着いて、人と接することができる仕事でした。

この職場でも、生理が重い日は休みを取りました。仕事は充実していましたが、恋人の東京転勤に際し結婚を決め、2年勤めてから寿退社しました。


結婚・上京後の暮らしと最初の妊娠

24歳で結婚し、夫と東京へ移住しました。最初の住まいは、夫の勤務先の古い社宅。ゴキブリが出るような環境でした。どうにかしたくて、自力でホウ酸団子をたくさん作って退治しました。刻んだ玉ねぎやホウ酸などを混ぜて丸めたものをベランダで干して、家のあちこちに置いたら、効果てきめん!それからは出てこなくなりました。

最初の頃は、周りに知り合いがいない環境で、仕事も辞めていたので時間は余るし、夫の仕事は仕事で帰りが遅いので、本当にさびしかったです。家族や地元の友達に長電話して、電話代が10万円になったこともありました。お金にゆとりもないので「これはあかん!」と、外に出ようと決めました。

そこで、損害保険会社で契約社員として働き始めました。オフィスが丸の内だったことが決めての一つでした。定時退社してから、銀座までお散歩してウィンドウショッピングをしたりして、少しずつ東京を楽しめるようになりました。さらに、三ッ星シェフのお手本を試食できる料理教室にも通うなど、仕事と趣味の両方で自分の行動範囲と交友関係が広がるに連れ、東京って楽しいな〜と思うように変化していきました。


出産と、子どものことに気づいていった時期

次の転機は、27歳です。妊娠しました。切迫流産になって入院するなど、万事順調というわけではありませんでしたが、乗り越えて出産しました。

おっぱいの吸い付きが悪い気がして、看護師さんからアドバイスをもらいましたが、気がかりであることには変わりありませんでした。その後の1ヶ月検診、2ヶ月検診でも医師から「大丈夫」と言われましたが、実母からは「もしかしたらダウン症じゃないか」と言われたので、すぐに染色体検査を受けたものの、結果は陰性でした。

その後、知人に紹介してもらい、CTなど脳を調べる検査も受けました。その結果、脳の前頭葉が発達しにくいことがわかったんです。生後4か月のときでした。

このときにはじめて夫や親族に伝えました。夫は息子の様子を見て「そんなわけない」と、最初は信じられない様子でしたが、だんだんと受け入れていきました。

私の両親は「何があっても、あなたの子どもには変わりないんだから、大切に育てなさい。私たちも支えるから」と言ってくれました。

療育のはじまり

どうしたらいいか分からず、パソコンも無い中でまず知人のつながりで、小児科医を紹介してもらいました。そこから相談機関を教えてもらい、さらに紹介状をもらって療育施設へとつなげていきました。30年以上前の当時は、診断されたからといって、助けの手が自然に来るわけではありませんでした。自分で調べて、自らドアを叩いていかないと、何も始まらない状態でした。

長男が生後8ヶ月頃から、週1で療育に通い、残りの6日は、療育で出た宿題を家で実践する日々が始まりました。


療育を続けながら、長男の育ちをひとつずつ見ていった時期

療育に通い始めてまず知ったのは、保護者である私のサポートの仕方でした。体の動きをどう教えたらいいのか、家で何をしたらいいのか、1週間分の宿題として、子どもの発達のために、自宅で毎日できることを細かく教えていただきました。

たとえば、ヘチマ、ブラシ、柔らかい布、タオルみたいに、感触の異なるものを何種類も使って、それぞれで手や体にふれて、その触感を脳に入れていくんです。お風呂上がりには「頭」「耳」「鼻」と言いながらその部位をさわって、体の部位を覚えさせたり。

座ることを習得させるときも同じです。「手をこう付いて、その後こうやって体を起こしていくんだよ」というように一連の流れを、繰り返し体で覚えられるように反復して伝えていくんです。そうして、自力で座れるようになったんです。そのときは本当にうれしかったですね。ひとつ新しいことができるようになるたびに、成長の喜びを強く感じました。

でもこれでいいのかという迷いはずっとありました。息子が泣いて嫌がることを無理にやらせることが、本当にこの子のためになっているんだろうかと不安になるんです。

だから後になって、長男が少し話せるようになった中学生くらいの頃に、一度聞いたんです。「お母さん、嫌いな小豆の上を歩かせたり、あなたが嫌がることをいっぱいしてきたけど、覚えてる?」って。そうしたら「覚えてるよ」と言うんです。「ごめんね、嫌やったよね」と言ったら、「嫌なことなかったよ」と言ってくれて、そのときは涙が出ました。あのときやってきたことが、間違いじゃなかったのかもしれないと思えた、ひとつの瞬間でした。

幼稚園に入るまでと、診断をどう受け止めるかで揺れていた頃

幼稚園年中の年度から、療育施設と子ども発達センターの2か所と幼稚園の3か所に通う日々が始まりました。療育のおかげで、幼稚園に入る頃には、ずっと寝転がったままということではなくなっていました。発語は「ママ」「パパ」「いやだ」くらいでしたが、同世代の子どもたちのいる環境に身をおくことで、プラスになるんじゃないかと考えて、私立幼稚園に通いました。

その頃の私はまだどこかで、療育を一生懸命やっていたら追いつけるんじゃないかと思っていました。当時は医師からも「発達の遅れ」みたいな言われ方でしたが、小学校に上がる前に、知的障がいというような確定した診断名が付いて、一生付き合っていくものなんだとわかりました。


2人目をどうするか悩んで、5歳差で次男を産んだ頃

長男を育てながら、2人目をどうするかについて、夫とたくさん話し合いました。同じように障がいを持った子どもが産まれる可能性もあるし、長男は私たちのケアがないと生きていけない状況で、両親も近くにいない、夫は仕事が忙しい、ワンオペ前提で果たして私に回せるのだろうかと、本当に悩みました。

一方で、もうひとり子どもを生みたいという気持ちはあったし、一緒に育つ兄弟という人間が存在することは長男にとってもよいのではないかと思い、決断しました。そして、長男の5歳下の次男を授かりました。

次男の出産は、無痛分娩にしました。長男のケアがあるので、計画的かつ、体力の回復を少しでも早くしたかったんです。

次男が生まれて初めて「赤ちゃんって教えなくても、こんなふうにできることが増えていくんだ」と、発見でした。寝返りも勝手にうてるようになるなど、発達の節目を自然に越えていくんですよね。長男にひとつずつ教えてきた発達の過程を、次男の成長を通して、改めて見ているようでした。長男と自分たちがトレーニングのように地道にやってきたことには、意味があったんだと思えました。


長男の保育園、次男の保育園、ふたりの子どもを抱えていた時期

長男は幼稚園を卒園してから1年間、保育園に通いました。障がい児枠で、先生が一人専任でついてくださる環境が見つかり、チャレンジしたいと思ったんです。結果的に、素晴らしい環境でした。小学校進学を一年遅らせるには、就学猶予を教育委員会に申請して許諾を得る手間はあったのですが、その手間をかけても、やってよかったと思っています。

何でも先生にやってもらうでも、ほっておかれるでもなく、常に見守られている状態で、本人ができる限りの事をさせてもらえる環境でした。長男は、周りの人がどう動くかをよく見ているので、周りの園児とも一緒に過ごせる環境は、彼の刺激にもなったと思います。とても生き生きしていました。

次男も、生後8か月で保育園に入りました。私は多忙な夫の仕事を手伝っていたので、療育施設を見つけるところから支援をしてくれていた相談機関が、次男も保育園に入れたほうがいいと、すごく親身になって動いてくださいました。ふたりの育児をしながら仕事もして、目まぐるしい日々でしたが、いろんな人達に助けられました。

次男は2歳から、長男と同じサッカー教室に通っていました。もともとは長男がきっかけでしたが、次男の上達っぷりはすさまじく、その後クラブチームのスクールにも入って、サッカー大好き少年になりました。兄弟揃ってサッカー好きでしたね。


小学校のために杉並区で引っ越しを重ねた頃

長男の小学校進学に際し、どの環境が本人にとってベストか、徹底的に調べて考えました。決め手になったのは、特別学級の人数とバランスでした。各学年にほどよく生徒がいて、性別も偏りすぎず、介助の人も多く、普通学級との交流が多い学校がよいと判断して選びました。今はどうかわかりませんが、当時は学区内じゃないと入学が認められなかったので、その学区に家族で引っ越しました。


心配を抱え続けて、私がうつになった

長男が小学校に上がる頃、私は一度うつになりました。当時、私は30代半ばでした。最初、異変を自覚したのは、引っ越しのタイミングです。朝起きたら、なんとも言えないどんよりした気持ちだったんです。新しい家に引っ越す日なのにおかしいなと思いましたが、それがうつだとはわからなかったです。

うつの理由はいろいろあったと思いますが、一番大きかったのは、忙しすぎて余裕がなく、自分のことをおざなりにしていたからだと思います。しんどかったら無理せずに寝る、というような自分へのケアがまったくなくなっていました。

うつの治療では、自分に合う先生に出会えたことが大きかったです。私は薬をあまり飲みたくないタイプなので、必要以上に処方せず、よくなったらやめられる量に調整してくれるような寄り添いがあったところがよかったです。少しずつ症状が和らいでいき、自分のスタンスとしても無理せずに寝るということもできるようになっていきました。


40代に入って、子宮内膜症と貧血が見つかった頃

30代の生理は、しんどさはありつつも、生理周期は安定していました。しかし、40代になると変わっていきました。ものすごく量が多い日が出現したんです。夜用ナプキンを替えても替えても追いつかないくらいで、貧血になりました。婦人科で、そのことを伝えて調べてもらったところ、子宮内膜症だと診断されました。処方された貧血の薬を飲んだらだいぶ楽になり、しばらくして再検査したところ、子宮内膜症が治ってると言われ、体調は落ち着きました。

長男は小学校を卒業して、評判のいい特別学級のある中学校へ進学しました。結果的に、長男にはよい環境だったと思います。

この頃から、今後手に職を持ちたいと思い、メイクの学校に通い、資格を取りました。長男のように、支援が必要な子どもたちに、メイクや身だしなみを教えてあげられたらいいな、と思ったのもきっかけのひとつです。42歳で資格を取り、エステサロンでメイク担当として働きました。お客様のエステ中に、希望に合わせてメイクをする仕事で、とても楽しかったです。忙しかったですが、今後に備えて、収入を少しでも増やしておきたいという気持ちもありました。


長男の高校進学を考えて山口に移った頃

長男が中学3年生、次男が小学6年生に上がるタイミングで、長男の高校進学を考え始めました。長男が好きなサッカーを続けられる環境がなかなか見つからなかったんです。長男は人の輪の中にいることが好きな子でした。だから、人と関わりながら過ごせる環境に入れてあげたいと思っていました。

全国に範囲を広げて調べた結果、山口にある高校がぴったりだと思い、その高校に進学を決め、私が44歳のときに、家族で山口に引っ越しました。次男は「なんで小6で引っ越さなきゃいけないの。せめて1年待ってよ」と怒りました。次男には申し訳なくて、とても心苦しかったです。でも、家族で一緒に動くと決めて移りました。

山口に行ってから、長男はすぐ順応しました。でも次男は、小学6年生での転校が本当にしんどかったのだと思います。授業参観で行った彼の教室で、グレー一色の自画像を見たときは、本当にかわいそうなことをしたと思いました。

次男は、山口でも得意なサッカーでトップチームに入って、小学生の全国大会にも出場しました。ただ、山口での指導がそれまでの東京のものとはまったく違い「もうサッカーをしたくない」と言い出したこともありました。その後、彼はそれを乗り越えて、中学からは心機一転、元気を取り戻し、高校では全国大会に出場するまでになりました。


山口での暮らし、更年期、2回目のうつ

山口に引っ越してから、人間関係に恵まれました。両隣にお住まいの人がとてもやさしいフレンドリーな方々で、一緒にバーベキューをしたり、息子たちのことも気にかけてくれて、心強かったです。

ですが、私は2回目のうつになりました。山口に移って2年くらい、46歳の頃だったと思います。忙しさにかまけて、自分のことを後回しにしてきたことの蓄積があったんだと思います。長男の関係で知り合ったカウンセリングの先生に、月1、2回通って話を聞いてもらって、メンテナンスをするようにしたら、じょじょに楽になっていきました。

更年期の症状も、この頃から始まりました。ホットフラッシュで急に汗が噴き出したり、疲れやすく、いくら寝ても眠いという状態でした。近所にいい婦人科が見つからず、ホルモン治療のような選択肢にも出会えず、それから閉経までの3、4年間、症状が続きました。

閉経は50歳です。最後の方は不定期で、経血量がとても多く、大変でした。
けれど、終わってみたら本当に快適。閉経した女性のことを「もう女じゃない」みたいに軽々しく言う人がいますが、すごく腹立たしいです。私はしんどかった生理から解放されて、むしろ解放感がありました。


山口でも、外で働くことをやめなかった時期

東京でやっていたエステサロンでのメイクの仕事の需要は、引っ越し先のエリアにはなかったのですが、知的障がいのある方たちが暮らす施設で「基礎化粧やメイクをできるようにしませんか」と提案をして、そこから2年ほどメイクを教えました。新たにマッサージの技術も習得して、仕事の幅を広げていきました。

さらに、テレフォンオペレーターの仕事も始めました。私は関西出身なので、テレオペをすれば標準語のトレーニングになるのではと思ったんです。週6日オペレーターをしながら、メイクやマッサージのお仕事をして、さらに夫の仕事も少し手伝うという日々でした。この頃も忙しかったですが、私は働いている方が好きだと改めて実感していました。息子の将来のことも考えて、なるべく収入や貯蓄を増やしておきたかったので、仕事のスキルを身につけておきたいという気持ちと、個人として社会とつながっていたいという気持ちの2つが原動力でした。


次男の進学、長男の暮らし、そして東京に戻った頃

次男は東京にある大学へ進学、長男は山口の支援学校を卒業して、同じく山口の知的障がいの人が働く作業所で働き始めました。夫の仕事は東京の比率が増えていき、家族のライフスタイルがまた変化したタイミングでした。

その後、世の中はコロナ禍になり、留学中の次男がロックダウンで緊急帰国したり、夫の仕事にも影響が出るなど、家族の今後を見直すことになりました。夫と次男にとっては東京拠点がベストだし、長男にとっても大好きな電車に乗ったり、人が多い東京は楽しいんじゃないかと考えたんです。そこで、私が57歳のときに、家族全員で東京に拠点を移しました。

山口にいる間に東京での長男の入所先を探しました。何か月も待つものだと聞いていましたが、運よく、すぐ決まりました。今、振り返ってみて、長男にとっても東京に戻ってきたことはよかったと思います。人が好きな子なので、とても楽しそうです。

私自身も、東京に戻って楽になりました。20代からの友達もいるし、刺激がいっぱいあります。しかも山口で勤めていた会社の本社は東京なので、テレフォンオペレーターの仕事も続けられることになりました。


いまの仕事と、いま思うこと

しかし、東京でも続けたテレフォンオペレーターの仕事は、ドクターストップがかかって、昨年末にやめました。耳の調子が悪くなってしまったんです。

心機一転、今年1月から保育園の保育補助の仕事に就きました。保育の仕事は長年の夢だったんです。毎日、とても楽しいです。今は腱鞘炎になってしまっているんですけど、それでも続けたいと思っていますし、手首に負担が大きいおしぼりの作業を少しでも減らしてもらえないか、相談してみようと考えています。以前の私だったら、痛くても我慢して何も言わなかったはず。仕事を辞めさせられたら...と、ネガティブな想像をして、抱え込んでいたと思います。でも今は、続けたいからこそ、ちゃんと伝えてみよう、無理のないやり方を考えようと考えられるようになりました。これまでの長年の経験があったからこそ、我慢して自己犠牲をしても、いい結果にはならないということがようやくわかってきました。


生理をふりかえって、いま何を思いますか?

初経からいままで50年ですね。本当に激動でした。自分でも「ようやったな」と思います。長男のことは、本当にいろんなことがありました。何度も無理と思ったけれど、家族でどうにかここまでやってこれました。

生理そのものについて言えば、私にとってはずっと「子どもを産むための体作り」というイメージでした。実際に出産も経験しましたが、生理自体はとてもしんどいし、長かったですね。

閉経した女性に対して、男性が「もう女じゃない」みたいな意味合いで言うのを聞くと、本当に腹が立ちます。当たり前ですが、生理が終わることは、女が終わることではありません。そういった風潮があるから、女性自身も生理が終わることを恥ずかしいことのように受け止めてしまうのではないかなと思います。私は閉経してからすごく快適になりました。更年期障害はしんどかったけれど、それを越えた今は、ほんまに楽です。終わったというより、解放されたという感じです。


注釈:「わたしの生理」では、いろんな世代・環境の方が、生理とどのように向き合って暮らしてきたのか記録し共有することで、隠されがちな生理を考えて話すきっかけにしたいと取り組んでいます。特定の商品やサービスまたは対処法を推奨するものではありません。掲載されている内容はその方個人の体験ですので、感じ方には個人差があります。気になる症状などがある際はご自身で医療機関にご相談ください。



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