わたしの生理 Vol.057 - マミートラックを目の当たりにして、保育士へ 3人の子育てとフリーランスとして模索する「いい子育て」 制約があるから面白い「ええかげん」な暮らしのいま
リサ 40歳 ええかげん商店店主
初経:中学1年生(13歳)
現在の平均生理日数:5日
現在の平均生理周期:27日
-生理はどんなものですか?
最近は気にしないもの。妊娠出産をもたらしてくれる尊いもの。同時にちょっとしんどいもの。
-生理と聞いて浮かぶイメージは?
(すごく悩んで...)リセット
-はじめての生理はいつでしたか?どんなはじまりでしたか?
初めての生理は、中学1年生です。あまり覚えていませんが、母に伝え、ナプキンの置き場所や家での片付け方を教えてもらいました。生理のことは、男性である父には話さない方がよいという雰囲気をなんとなく感じた記憶もあります。私は、妹と弟がいる3人きょうだいの長女だったので、その中では自分が一番早く生理を迎えました。お赤飯でお祝いをしてもらったことも覚えています。まわりの友達が次々に生理になっていたので「どんなものだろう」と気になっていたので、生理が来たことが素直に嬉しかったです。
最初に生理を知ったのは、それよりも前、小学4年生のときです。仲よしの友達が生理になったんです。「血が出るんだよ」「ちょっとお腹が痛いんだよ」と聞いて、そのときは驚きました。母から聞いたこともなかったので、友達の話が生理を知る最初の機会でした。
-中学生の生理でどんなことを覚えていますか?
中学1年生の生理は不定期で、中3にかけて少しずつ整って、定期的になっていったと思います。中学時代の生理といえば、部活の生理です。小学4年生からバスケを始めて、中学でも本格的にやっていました。バスケは激しく動き、大量の汗をかくので、ナプキンのムレが本当に嫌でした。激しく動き回る最中に漏れてしまうことも多々ありました。普段の練習は黒いハーフパンツだったのでまだよかったのですが、試合のユニフォームは白いハーフパンツで、経血量が多い日に試合が重なったときは、漏れるんじゃないかとヒヤヒヤしました。
生理痛については、社会人になるまで記憶がありません。PMSやメンタル面の不調も、気にしたこともないです。鈍感だっただけかもしれませんが、中学時代の生理は「血が出るタイミング」くらいの軽いものでした。
-どんな中学生でしたか?部活以外で覚えていることはありますか?
自分で言うのもあれですが、勉強ができる方でした。当時は一度聞けば記憶できちゃうタイプだったので、「学校の勉強」という枠組みでは、特別な努力をしなくても成績が良かったです。その上、提出物をきちんと出して評価されたり、表彰されることにもやりがいを感じる、承認欲求の高いタイプだったので(笑)、自主的に宿題も頑張ったし、手を挙げて発言することも多い、積極的な目立つ生徒でした。文化祭委員や学級委員のような役割も、自然と回ってくることが多かったです。
ただ、一部の教師や同級生との関係には苦労しました。「出る杭を打つ」タイプの生徒や先生に目の敵にされて、傷つくことを言われたり、いじめみたいなこともありました。学校に行きたくないと思うこともありましたが、実際に行かないという選択はしませんでした。部活の友達をはじめ、他に仲よしの子がいて、居場所があったからです。
-高校生になって、変化はありましたか?
高校は、地元の進学校に進みました。中学までは、勉強で困ったことはありませんでしたが、高校ではそうはいきませんでした。今でも覚えているんですが、中学では90点以上が当たり前だったところから、高1の初めての数学試験でなんと14点をとったんです。高校受験のときに通っていた塾の先生を訪ねて入学前の課題をどうにかこなしていったのに、です!
難易度が格段に上がっていて、中学と同じ方法では太刀打ちできませんでした。一方で、90点や100点を取っている同級生もいて、衝撃でした。
部活はバスケを続けました。「進学校だから部活はゆるいだろう」とたかを括っていましたが、蓋を開けてみたら、男女一緒に練習するし、2個上の男子の先輩は関東大会に出場するようなチームで、結局高校もバスケ漬けになりました。
この時期、体つきの変化に悩まされました。私は胸が大きく、とにかく邪魔だったんです。バスケは上下左右に激しく動くスポーツです。動くたびにいちいち胸が揺れる煩わしさと痛みに、とても悩みました。いいスポーツブラを求めて試してみたりもしましたが、それでも完全に解決するものはありませんでした。
生理周期は、たまに遅れたり来ないときがあって、生理不順気味だったと思います。運動のしすぎが理由かなとは思っていましたが、とくに気にしませんでした。タンポンの存在は水泳部の友達から聞いて知っていましたが、試してみようとは思わず、変わらずナプキンでしのぎました。
-高校の後はどんな道に進んだのですか?
東京の大学に進学しました。進路を決めたきっかけは、高校生時代のオーストラリアへの短期留学です。学校のプログラムで、2週間、現地の高校の授業を受けるというものでした。現地の学校で「次の授業は、何受けるの?」と同級生に聞かれ、そのときに、オーストラリアでは生徒自身が、毎回自分で授業を選んで行動していることを知って、大きな衝撃を受けました。それまでの私は、自発的に行動しているつもりで、学校の定めた枠の中で頑張る、いわばレールに乗る生き方をしていたんだと気づいたんです。滞在中の2週間で開眼し、「私も自立した場所に身を置いて学びたい、海外の大学に行きたい」と考えるようになりました。
ところが、親に大反対されました。父も母も大学を出ていなかったので、日本で「いい」大学を出て、「いい」企業に勤めて、自分たちのした苦労をして欲しくない、という思いがあったのだと思います。私の覚えてる範囲では、初めて親と進路に関して意見がぶつかった出来事でした。家出もしてみたんですが、説得しきれなかったんですが、諦めきれなかったので、「日本で留学が絶対にできる学部」を軸に、当時少しずつ増えていた国際教養系の学部をいくつか受験し、無事に第一志望に決まりました。
-どんな大学生活でしたか?生理で覚えていることはありますか?
大学へは実家から片道1時間半かけて通いました。私が所属する学科は、授業がすべて英語で行われていて、帰国子女や留学生の生徒も多く、初めは全然ついていけませんでした。同級生にわからないことを聞きまくって助けてもらいながら、どうにか毎日を乗り切り、留学を終えた頃にギリギリついていけるようになりました。周りに優秀な人が本当に多くて、とても刺激的でした。
生理は、大学に入ったころから、周期が整ってきました。部活を辞めたので、日常的に激しく運動する習慣がなくなったからだと思います。サークルの合宿では、生理がかぶってしまい、私だけ温泉に入れなかった記憶もあります。
留学は、大学2年生の夏から1年間、オーストラリアへ行きました。現地では生理用品の事情が日本と異なっていて、印象に残っています。ナプキンは値段が高いのにも関わらず、分厚い羽無しで、あまりいいものではありませんでした。一方で、タンポンは充実していました。私もオーストラリアで初めてタンポンを使いました。アプリケーターがついてない、自分の指で腟に押し込むタイプのもので、扱いには少し苦労しました。
経血が漏れて、服についてしまうことは、留学中もたまにありました。ホームステイをしていたので、自分で洗って経血の染みを落とすときに、ホストファミリーに相談が必要なこともあり、最初は伝えるのを躊躇しました。でも、オープンなホストファミリーで、「OK, OK!」という感じで、話しやすい環境でした。
留学して環境が変わっても、生理周期がずれることはありませんでした。
-留学を経て、どんな道に進みましたか?
就職活動では、最初の何年かガツガツ働きたいという気持ちがあって、環境が整備された大企業ではなく、小さめのベンチャー企業を志望しました。メディアや情報発信に関わる仕事に興味がありました。もともと、大学受験のときには児童虐待や世界の子どもの貧困に興味を持ち、国連で働きたいと言っていたくらい「子ども」と子どもを取り巻く環境に興味がありました。卒論のテーマは、保育園のビジネス化についてで、調べていくうちに、海外だけでなく日本の中にも課題がたくさんあることを知り、国内で自分ができることを考えた結果、育児系の情報メディアを持つ会社に就職しました。
-社会人になって、生理や生活はどう変わりましたか?
最初は広告営業の仕事で、飲み会も多く、体力的にかなりハードでした。「また部活に入ったのかな」と思うくらい、体育会系の雰囲気がありましたね。
あの頃の生理がどうだったかはまったく覚えていないのですが、婦人科に行くほど困ったことはありませんでした。一方で、いわゆる生理痛と呼ばれる症状を自覚するようになったのは、社会人になってからです。お腹がシクシク痛むようになり、初めて生理痛で市販の鎮痛薬を飲むようになりました。
仕事自体は大変ながらも楽しく、社会人としての基礎を叩き込んでもらった約4年間でした。4年間勤めた後、新卒入社した会社を辞めて、保育園に転職しました。
-保育士への転身は、どんな経緯でしたか?
会社員生活が3年ほど経った頃、フルタイムで働きながら、保育士資格の勉強を始め、保育士として転職しました。
きっかけは、自分が在籍していた会社で、マミートラックが現実に起きていることを実感したことです。勤めていた会社は、女性比率が比較的高く、働く意欲の高い女性が多くいるのに、出産後に保育園に子どもを預けられず、戻ってこられない先輩や、力があっても子育てとの両立のなかで、昇進していけない先輩たちの姿を間近で見たんです。
このときに、「まずは安心して子どもを預けられる保育園の数が増えることが大事だ」と考え、保育園を作りたいと思ったので、そのためにまずは自分が保育士になろうと決意しました。
そして、複数の保育園を運営する社会福祉法人に転職しました。新しい園が立ち上がるタイミングでの採用で、園の立ち上げ業務にも関わりました。スタートした新しい園では、0歳児クラスを専門学校卒の20歳の同僚2人で担当することになりました。2人とも保育士になりたてだったので、右も左もわからないまま試行錯誤する日々でした。
その園で働くうちに、「0歳から保育園に預けられることが、子どもにとって本当にいいことなのだろうか」という疑問を持つようになりました。そして「0歳のときは、自分で育てたい」と保護者が思っても、0歳で預けないと1歳のタイミングでは預けられず、意思に反して0歳のうちから預けざるを得ない現状や行政の仕組みに違和感を感じました。
「本当に子どもにとっていい保育って何だろう」。そんな問いを、保育士をしながら自分なりに探りたいと思うようになりました。そんな中で出会ったのが、保育士が立ち上げた「あそび」をテーマにする任意団体でした。保育士として働きながら、その活動に参加しました。翌年には、保育園を非常勤に切り替え、朝と夕方だけ保育園で働き、日中は外遊びの活動に充てる生活を送りました。
さらにその翌年、別の社会福祉法人の保育園に移りました。この保育園は、保育士が保護者の悪口を言うことが常態化した環境でした。前に勤めた園ではそんなことはありえなかったので、すごく驚いたし、精神的に参ってしまいました。休憩時にひとり、園の屋上でアイスを食べながら見上げた空の光景を、今でも思い出せます。
その後、別の保育園の立ち上げに声をかけてもらい、転職しました。
次の園は、コワーキングスペース併設の保育園で、コワーキングスペース利用している親とその子どもたちが同じ建物にいて、親は子どものそばで仕事ができる環境でした。私はメインの保育実務担当として保育方針の策定、日々の保育実践を担当し、「外遊び」を軸にした保育を実践しました。雨の日も外に出て遊び、地域の店を招いて夏祭りを開いたり、同じ建物の別のフロアで働く人たちに豆まきの鬼役をお願いしたりと、地域に開かれた保育を作っていきました。
親子向けの活動も含めて、この時期に出会った、自分で自分の生き方を模索しつつも、子育ても同じ熱量で頑張っている、そんなお母さんたちの姿が、今の私にとって大きな原動力になっています。
その後、第1子出産のタイミングの31歳で、勤めていた園を辞める決断をしました。自分の子どもを預けながら他の子どもをみることに、矛盾を感じてしまったんです。まずは初めての子育てを全力でやってみようと思いました。
仕事は、フリーランスとして続けました。保育士の知識を生かしたライティングの仕事を頂いたり、外遊びのプロジェクトを立ち上げて、活動を始めました。第1子は、1歳半頃までは一時保育を使いながら、基本的に家で一緒に過ごしました。振り返ると、仕事をしながら満足のいく子育てに挑戦する、実験期間だったと思っています。
第1子の妊娠・出産での身体の記憶はありますか?
出産直前まで保育園で働いていましたが、つわりが重くて、保育園の理解ある同僚たちに支えられながら過ごしました。まわりに子育てのベテランがたくさんいて、「無理しないで休んでいいよ」と言ってもらえたり、座って通勤できるように出勤時間をずらしてもらったり、ありがたかったです。つわりを越えた後はそれほど辛くなく、出産は助産院で迎えました。私にとって出産はとても楽しい経験です。
生理が再開したのは、授乳をやめる頃なので、産後1年後のことでした。再開後の生理に変化はありませんでした。
初めての子育ては、保育士として働いてきた経験から、おむつ替えや沐浴など、ひとつひとつのスキルは持っていたので、その面では、新米母でも楽だったと思います。難しかったのは、子どもの要望と母である自分の要望をどう折り合わせるかということでした。とくに第1子のときは「自分が学んできた良い育児を全部やりたい」という気持ちが強かったです。例えば、保育士時代に学んだモンテッソーリ教育を参考に、家の中のおもちゃや家具の配置を整えても、子どもが全然狙ったとおりに遊んでくれない上に、私の後ろを高速で追いかけてくる、などなど、今思うと甘すぎた想定と現実のギャップに常に葛藤し、試行錯誤していました。
当時暮らしていたのは、5軒のテラスハウスがつながった集合住宅で、そのうち4軒が同世代の子どもを持つ家庭でした。それぞれの子どもの発達を見ながら、みんなでわいわい子育てができたことは、とても面白い経験でした。「子育ては一人でするものじゃない」とこの経験から強く感じました。このコミュニティでの子育ては、後に第3子を産むときまでしばらく続きました。
-その後、転機や変化はありましたか?
第2子の妊娠・出産です。第2子は、第1子の2年後に生まれました。ふたりとも男の子です。ちょうどコロナが始まったところで、0歳と2歳の息子を抱えてのコロナ生活は大変でした。それでも、同じテラスハウスに住んでいるご近所さんと、協力しながら過ごすことができて、本当に助かりました。
第2子を保育園に預け始める時期は、第1子のときと考え方を変えました。第2子は0歳児で預け始め、一日の預ける時間を短くするようにしたんです。預ける時間が長くならないように、自分の働き方を考える、という基本方針です。朝8時半に預けて夕方4時半には迎えに行き、その間に仕事をする働き方にしました。
新婚旅行で訪れたフィンランドで、保育園に子どもがいられる時間の上限があらかじめ決まっている仕組みを知ったことも、この考え方に影響しています。夫もとても協力的でした。ごく普通のサラリーマンですが、彼自身が自然の中でのびのび育ったタイプなので、外で遊ばせて、のびのび育てたい!という方針自体は同じ方向を向いています。基本的に寛容なので、私がこうしたい!ということにも柔軟に対応してくれました。子育て、家事、仕事については、たびたび話し合ってベストを探し続けてくれる、ありがたいパートナーです。
-第3子の出産はいつ頃ですか?出産と子育ては、どんな時期でしたか?
第3子は、第2子と4歳差、私が37歳のときに生まれました。第1子から3人とも助産院で出産したのですが、夫と6歳の長男、4歳の次男、家族全員が立ち会いました。長男は、次男の出産にも立ち会っているので、2回目の出産立ち会いです。出産前から、助産院で提供されているきょうだい向けのクラスに参加して、赤ちゃんがどう成長し、どう生まれてくるかを学んでいました。次男が生まれるのを覗き込んでいた瞬間に破水して、羊水が彼の顔にかかるというハプニングもありましたが(笑)、へその緒を切る役を取り合うほど、自然に受け入れてくれていたように思います。
息子たちには、今生理についてオープンに話しています。「生理は、赤ちゃんが使うはずだったベッドが、使われなかったから毎月流れてくるものだよ」と伝えていて、生理になるたびに「今回もベッド使わなかったの?」と聞かれます。(笑)
-3回の出産で、生理の変化を感じることはありましたか?
産後の生理の戻り方には、ちがいがありました。第1子と第2子は授乳をやめるまでの約1年間戻らなかったけれど、第3子だけは授乳中にもかかわらず半年ほどで戻ってきました。一方、再開した生理は、妊娠前といずれも量や周期がほとんど変わらず、安定しています。
身体の変化を感じ始めたのは、第3子を産んだ後でした。疲れやすくなったり、肌のシミが増えたり、女性ホルモンの変化なども実感するようになりました。生理そのものの状態は大きく変わっていないものの、以前よりイライラや怒りやすくなった気もします。
-生理用品の変化はありますか?
30代になって、布ナプキンを使い始めました。第1子の妊娠・出産で通っていた助産院で、自然派の考え方を持つ人と話す機会も増え、ナプキンの経皮吸収についてのことを聞いたことや、生理のためだけにトイレにゴミ箱を置きたくないという気持ちから、紙ナプキンを辞めて、布ナプキンに切り替えました。
それから数年経って、月経カップを使うようになりました。今から3、4年前です。海外のサステナブルな商品のセレクトショップに海外製月経カップがあり、試したのが最初でした。使ってみると、ゴミが出ないことが何よりも楽で、それまで感じていた小さなストレスから解放されました。それ以来、布ナプキンや吸水ショーツと組み合わせながら、月経カップを日常的に使うようになりました。
murmoとの出会いは、私が営むサステナブルなセレクトショップ「ええかげん商店」で扱う商品を探しているときでした。ウェブで偶然見つけ、試してみたところ、それまで使っていた海外製の月経カップより折りたたみやすく開きやすくて、使いやすいと思いました。容量については、前使っていたものが大きめサイズだったので、murmoの方が小さく少し心配していましたが、使ってみると実際にはあまり問題はありませんでした。もともと経血量が多い日は日中も何度かカップを空にしていたし、夜も吸水ショーツと併用すれば漏れることはなく、十分な大きさです。
「ええかげん商店」は、自分が使っておすすめしたいサステナブルなアイテムをセレクトしたお店。使ってみて納得したので、murmoを取り扱うことに決めました。前回の開店日には、murmoをきっかけに自分たちや子どもたちの生理について話がふくらんだりと、対面だからこそ扱う意味があるし、ぜひ広めていきたいと思っています。
-今はどんな活動をされていますか?
最近始めたのが、先程からお話ししている「ええかげん商店」です。去年、この地域(千葉県習志野市)に引っ越してきて、友だちを増やすべく何か活動がしたいな、と思ったときに、今仕事でもやっている気候変動や社会課題に対するアクションを、具体化して伝えたいなと考えたんですね。それでサステナブルな日用品のお店をはじめることにしました。サステナブルで思い浮かぶのっていわゆる「丁寧な暮らし」だと思うんですけど、3人子どもがいて、働いて、ってしてるとできないんですよね。でも、日用品の選び方を変えることはできる。頑張りすぎないことと、地球や未来の世代のことも考えることは両立できるぞ!ということで「ええかげん(=地球にとっても私にとってもちょうどいい&てきとーでいこう!)」というコンセプトになりました。マーケットに出ることもあるんですが、月に一度の自宅ショップがメインの、とっても小さな商店です。
それ以外では、フリーランスとして、複数の仕事を並行して活動しています。現在は、アジア太平洋地域の社会起業家を支援する国際NGOで中高生向けの環境教育授業の企画運営、営業をしたり、区の生涯学習スクールで子どもの遊びに関する講師もしています。今まで関わった中で面白かった仕事は、子どもの遊びと育ちをテーマにした映画のPRで全国を行脚したこと。全国で子ども支援、子育て支援をしている人たちにたくさん出会うことができました。
この夏からは、まちづくりに関わる会社での仕事も始まります。今までは人のつながりからのお仕事が多かったのですが、何か新しいことをはじめたい、と思って、求人をウェブで探して応募したんです。これまでの仕事は保育や子育て、遊びに関わる分野が中心だったので、まちづくりという新しい領域に自分から手を挙げてみたことは、私自身にとっても新しい挑戦で、わくわくしています。
すべての活動に共通しているのは、人のエンパワーメントへの関心です。保育士になったきっかけも、女性の先輩たちが仕事に悩んでいるのを感じたから。保育や外遊びの活動は子どもの主体性を育む環境づくりであり、まちづくりの仕事は、子育てなどを理由にキャリアを離れた人たちが、地域でもっと活動できる仕組みを作りたい、という思いにつながっています。
-生理をふりかえって、いま何を思いますか?
「女の子でよかった」と思います。制約があるから、それを突破する楽しさがあるんですよね。生理という制約をどう自分なりに工夫して面白くしていけるか、その余地をずっと楽しんできました。マミートラックには乗りたくないと思って、フリーランスという働き方を選んだことも、ええかげん商店を始めたことも、月経カップを使って生理を快適にしたことも、その延長線上にあります。これからも3人の子どもたちの成長をそばで見る喜びを感じながら、自分のやりたい仕事や活動をしていきたいと思います。
注釈:「わたしの生理」では、いろんな世代・環境の方が、生理とどのように向き合って暮らしてきたのか記録し共有することで、隠されがちな生理を考えて話すきっかけにしたいと取り組んでいます。特定の商品やサービスまたは対処法を推奨するものではありません。掲載されている内容はその方個人の体験ですので、感じ方には個人差があります。気になる症状などがある際はご自身で医療機関にご相談ください。