わたしの生理 Vol.053 - 3000人の女性に寄り添いながら 自分の身体は、後回しにしてきた 腟ケアと出会い、変わるまで
ぽかりん 30代後半 助産師、腟ケア指導士
初経:小学4年生(10歳)
現在の平均生理日数:約5日
現在の平均生理周期:28〜30日
生理はどんなものですか?
自分の身体のバロメーター
生理と聞いて浮かぶイメージは?
血が出る
はじめての生理はいつでしたか?どんなふうに覚えてますか?
小学4年生の夏休み、蒸し暑い日だったことを覚えています。遠方にある祖父母の家に家族で帰省していたときでした。パンツに違和感を覚えて「生理が来たかもしれない」と母に伝えました。母からナプキンをもらって、対処しました。
私は四姉妹の末っ子で、暮らしの中で、母や姉の会話や行動を通じて、生理のことを自然に知りました。1番上の姉と3番目の姉は生理痛が重くて、家で悶え苦しむ姿を見ていたので、自分にも生理が来たら「きっと大変なんだろうな」というイメージを持っていました。
小学校では、宿泊研修の前に男女別で生理について教わる機会がありました。生理周期を書く用紙とナプキン、説明書が入った小さな巾着袋をもらった記憶があります。
小学生の頃の生理で覚えていることはありますか?
当時、生理で困ったのはなんといっても、学校でナプキンを替えることでした。誰にも生理だと知られたくなくて、ナプキンをカバンから出すことや、ナプキンの包装を開ける音などを気にしていました。休憩時間にナプキンを替えたいけど、誰にもバレたくない気持ちの間で葛藤もしました。休憩時間は短いし、みんな同じタイミングだから、トイレに人がいない時間を見計らうこともできなくて、「どうしたら周りにバレずに替えられるか」ということを、小学生なりにずいぶん悩みました。
試行錯誤する中で、対処法を見つけました。取り替え用のナプキンが入るポケット付きのサニタリーショーツを母に用意してもらい、カバンからナプキンを取り出す必要をなくしたり、取り替え用のナプキンの袋やシールを家ではがしておいて、トイレでベリベリ音がでないように下準備をして学校に持っていったりしたんです。ずいぶん気が楽になりました。
もうひとつ、ナプキンを股の間に挟んで体との隙間を減らす漏れ防止アドバイスを姉からもらって実践していました。でも、当時経血量が多かったという記憶はありません。この頃はまだ生理痛もありませんでした。ただ、血の匂いは苦手でした。
中学生のときはどんな生活でしたか?生理に変化はありましたか?
中学1年生の頃、学校の友人関係に悩んだ時期がありました。私が通っていたのは、2つの小学校が合流する中学校で、別の小学校から進学した子たちと仲良くなったと思ったら、急にグループ内で仲間はずれにされてしまったんです。あの頃は、学校に行くときに過呼吸が起きる程、追い詰められていました。
でも、親に相談できていたし、支えてくれる友達もいたのはありがたかったです。学校を休む選択肢はなかったので、どうにかつらいながらも学校には通っていたのですが、解決したきっかけは、転部です。関係が悪くなったリーダー格の子と同じ部活に所属していて、それがストレスだったので、思い切って転部しました。そうしたら、のびのびとできる場所ができて、少しずつ立ち直ることができました。その子とは、今でも会うし普通に話せる間柄になっています。未熟な中学生ゆえのことだったんだな、と今は思えています。
転部先は陸上部でしたが、部活の生理は、少し大変でした。グラウンドとトイレの距離が遠くて、なかなかトイレに行けないんです。丸一日練習のある日はとくに大変でした。大会と生理が重なるとユニフォームが短パンなのも負担でした。当時はタンポンの存在すら知らなかったので、夜用ナプキンを昼間から使うなどして、凌いでいました。
この頃から、生理痛が出てきたと思います。でも姉の悶絶するような苦しみを見ていたから、「痛いけど、私は軽い方なんだ」と思っていました。痛みがあるときは、市販の鎮痛薬を飲んで対処していました。早めに薬を飲んだ方が効きやすいことを姉に教えてもらって、実践していました。
どんな高校時代を送りましたか?
高校は、家から片道1時間半かかる学校に進学しました。電車通学なので、ラッシュを避けるために、朝6時半には自宅を出発する生活でした。同じ最寄り駅に住んでいる友達が何人かいたので一緒に朝早く学校に行って、授業前までみんなで勉強していました。進学校だったのですが、私はそれほど成績がよい方じゃなく、その代わりに内申点を稼いで乗り切る作戦にしました。
部活は、インターアクトクラブと家庭クラブに所属しました。ボランティアをしたり、英語のディベート大会に出たりと、いろんな経験をしました。さらに、生徒会にも関わりました。授業も真面目に受けていたし、充実した学生生活でした。今でも当時の友達と連絡を取り続けています。
高校時代の生理は、中学時代と変化はなかったと思います。とくに記憶に残っていることもありません。
今、助産師をされていますが、目指したきっかけは何でしたか?
最初は、助産師を志す前に、看護師になりたいと思っていたんです。それは、高校よりずっと前のことです。
幼い頃から、祖父が一番上の姉に「女性は看護師になるのがいい」と言っているのを聞いていました。一番上の姉はそれに反発して、看護師にはなりませんでしたが、私は「看護師っていいな」とポジティブに受け止めていました。
小学校高学年の頃には、祖父母の介護を家族で経験しました。祖母が脳梗塞で左半身麻痺になり、祖父は認知症で外を徘徊してしまうようになったんです。母が中心になって介護をしましたが、私も手伝いながら、その様子をそばで見ていました。高齢者の介護はすごく大変だとは思ったのですが、人をケアする仕事への興味はこのときにも感じていました。
あるとき、高校の友達が、チャイルドライフスペシャリストという職業に就きたいと話してくれました。手術や入院を経験する子どもの心に寄り添う専門家のことで、その友達と一緒に名古屋の病院にボランティアとして、見学に行きました。私の中には、すでに看護師になりたいという思いがあったのですが、このときの経験から、子どもに関わる看護の道にも関心を持つようになりました。
そして私が高校2年生の時、1番上の姉が出産したんです。その頃から、お産に携わる助産師という道も視野に入ってきました。
そういった経緯があり、首都圏にある国立大学の看護学部を目指しました。その大学には、小児専門看護師も母性の専門看護師も目指せる環境があって、なるべく選択肢が広がる場所に行きたいと思ったんです。あと、地元から離れたところで生活してみたいという気持ちもありました。
今ふりかえってみると、四姉妹のうち3人がケアの仕事に就きました。2番目の姉は、祖父母の介護に関わる経験を通じて介護士になって、今はケアマネもしています。3番目の姉は鍼灸師です。そして私は助産師。親はケアと関係ない仕事ですが、祖父の言葉や祖父母の介護という共通の経験が、それぞれの背中を押したのかもしれないですね。
大学時代の生活と生理について教えてください
無事に、志望していた大学に進学することができました。初めての一人暮らしで、大学の授業に加えて、水泳部、チアダンス、ダンススクール、アルバイト。とにかく詰め込んでいて、息をつく間もないような多忙な大学生活でした。若いからそれでも乗り切れました。
この頃から、毎月生理が来るかどうか気にするようになりました。母が基礎体温を測っていたことを思い出して、私も基礎体温をつけるようにしました。ピルより安く、手軽に自分の状態を把握できるということで、学生らしい発想ですよね。
大学4年生の時には、保健師・助産師・看護師の3つの国家資格を一度に取得することに挑みました。その分、授業も増え、その中でも助産師の課程は、お産を10例受け持つまで国家試験の受験資格が得られない仕組みで、産院に泊まり込んで出産を待機する夜が何度もありました。その上に卒業研究と国試の勉強も重なって、あまりの忙しさに腎盂腎炎になってしまったこともあります。高熱が出て、尿が出なくなって、ようやく出たと思ったら血尿です。体力の限界で免疫力が落ちていたのだと思います。このときはとても大変でしたが、結果的には、無事に3つすべての国家資格を取って卒業することができました。
大学を卒業して、どんな道に進みましたか?
助産師として、東京の地域周産期母子医療センターに就職しました。年間2000件ほどのお産を扱い、NICUも併設している施設でした。
同僚はとても多様で、私のような20代前半の社会人なりたての人もいれば、地方から転職してきた人、国際機関での社会経験を持つお姉さん的な人もいて、今までに接したことのない人と話すのは面白く、職場の人間関係も良好でした。
仕事の内容は幅広く、分娩前後のケア、産後のお母さんや赤ちゃんへの授乳指導と育児支援、帝王切開の手術室での立会い、救急搬送への対応。助産師外来では妊婦健診を担当するようになり、畳の部屋で医師なしに助産師だけでお産をサポートする経験もありました。さらに、マタニティビクスとマタニティヨガの資格も取って、妊婦さんや産後のお母さんへのクラスの担当もしました。
年次が上がるにつれて、責任も増えていきました。2年目になると1年目の子の指導役、さらに経験を積むとそのまた上、そしてチームのリーダーなど、さまざまな立場を経験しました。院内研究もあって、お産の夜勤明けにデスクワークの残業をしたりと、とても忙しかったです。自分の時間がもっと欲しいと思っていましたが、上司は私のキャリアプランを折に触れて問いかけてくれていました。今振り返ると、そのときの経験が自分の血肉になっていて、私の人生を本気で考えてくれていたと思って、本当に感謝しています。
20代の身体と生理はどんな状態でしたか?
20代は、低用量ピルを飲んでいました。避妊と旅行などの生理日調整が目的でした。近い領域で働いているものの、自分が婦人科に行くことへは少し抵抗がありました。自分が働く病院には知り合いがいるから行きにくく、別のクリニックへ行ってみると、当時は待ち時間がとても長かったり、対応が気になったりすることもあって、なかなか行きづらかったですね。この頃も生理痛はあったので、生理2日目には仕事前から鎮痛剤を飲んで対処していました。
生理以外では、忙しい時期に、膀胱炎になることもありました。仕事が不規則で、トイレに行くことを無意識に我慢していた部分もあったと思います。食事も適当になりがちで、睡眠も軽んじていた時期でした。
30代にかけて、なにか転機はありましたか?
29歳で結婚しました。妊娠を希望していたのですが、結婚後、しばらく経っても妊娠する気配がなかったので、婦人科を受診すると、多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)の診断を受けました。それまで大きな生理のトラブルを抱えたことがなかったので、まさかと驚きました。知り合いの先生に相談したところ、タイミング療法や人工受精を飛ばして体外受精をすることを勧められて、その選択をしました。
自分の中に、できれば30歳くらいまでに子どもを持てたら、という気持ちがありました。3人の姉にはすでに子どもがいて、自分だけ取り残されている焦りもあったと思います。
当時、不妊治療をしていることは、誰にも言いませんでした。職場の人にも、両親や姉、友達も含めてです。助産師として妊娠・出産の場に毎日関わっている自分が不妊治療を受けているなんて言えないって思ったんです。今思えば、そんなことまったく関係ないし、後から不妊治療をしていたことは言えるようになったのですが、治療中はどうしても言えなかったですね。
夫は当時、仕事で新たな挑戦をしていたタイミングで、とても忙しく、サポートを求められる状況でもありませんでした。夜勤中の仮眠時間にひとりで、不妊治療の体験談をスマホで読み漁った夜もありました。そこで何度も見かけたのが、「見えないトンネルの中にいる感覚」という言葉でした。私もまさに同じ気持ちでした。
さらに大変だったのは、夜勤のあるシフトの中で、通院のタイミングを見計らうことでした。不妊治療していることを職場に知らせていないので、夜勤明けに職場からクリニックに直接向かったりして、体力、メンタル、お金、時間、全部において負担が多い時期でした。
その後、体外受精で第1子を授かりました。でも、妊娠が確認されても、安定期を過ぎるまで、職場や親には言いませんでした。この頃も不妊治療を経ての妊娠だと知られることへの恥ずかしさも変わらずありました。妊娠していることを言わなかったので、つわりがひどい日も夜勤を続けていました。夜勤の方が通勤ラッシュを避けられて、通勤の負担が少ない、という理由を自分にも言い聞かせたりもしていました。
出産はどんな体験でしたか?心身や生活の変化はありましたか?
第1子は帝王切開で出産しました。これだけ多くの出産に立ち会ってきたのに、いざ自分が産む側になると、思い描いていたものと全然違いました。産後は授乳にも苦戦しました。産後のお母さんへの授乳指導を仕事にしてきたのに、いざ自分がやろうとするとうまくできなかったんです。そのときはショックでしたが、そのときの経験が今の仕事に生きていると感じています。
生理は、産後半年くらいで再開しました。産後の生理は、妊娠前より重くなりました。経血量が増えて、漏れてしまうことも多くなったり、腰痛にもなり、常に疲れが取れない日が続くようになりました。
仕事は、産後約1年で復帰しました。最初は時短勤務でしたが、育児、仕事、家事と分刻みで動いていて、手いっぱいでした。
生理は重くなっていましたが、そんなことに構う余裕はなかったです。生理用品も、「安いから」「いつも使っているから」という理由だけで選び続けていました。自分の体に合うものを探してみようとか、新しいものを試してみようとか、この頃はそういう発想自体ありませんでした。こうやって話しながら振り返ってみると、当時は自分のことをケアできていなかったと思います。
その後、30代で生活や身体に変化はありましたか?
第2子を出産しました。そして、第2子の育休中に、東京から、実家のある地方に転居・転職しました。
決断のきっかけは、ひとつではありません。新卒から10年以上勤めていた職場で責任のある仕事を任せてもらい、充実していました。でも、夜勤のある仕事を続けながらのほぼワンオペ育児、両親が近くにおらずサポートが得にくい環境、さらに勤めている職場が移転してさらに通勤距離が延びる予定などもあり、このまま続けるのは負担が大きいと思い、転職を考えました。都内で条件の合う職場を探してみましたが、なかなか見つかりませんでした。
夫に相談すると「自分の仕事はどこでもできるから」と言ってくれて、話し合いの末、私の実家から車ですぐ行ける場所に移住することにしました。今までの東京のマンションに比べて、広々としていて、自然が多い住環境で子どもたちを育てられるようになりました。
幸いなことに、地元の産科クリニックへの転職もすぐ決まりました。前の職場では経験しなかった無痛分娩の対応や、母乳外来のケアも担当するようになりました。
産科なので、変わらず夜勤はありますが、夫が自宅でのテレワークをしながら、私のシフトに合わせて動いてくれるようになりました。どうしても都合がつかないときだけ、近所に暮らす私の親に子どもをみてもらい、基本的には自分たちで回せるようになって、以前よりも無理が減っていきました。
第2子の出産後の生理は、第1子出産後の生理からさらに変化がありました。経血量が増え、ドバっとでることが増えるなど、骨盤底のゆるみを感じるようになりました。
その後の転機や30代後半、現在に至るまでのお話を聞かせてください
その後の転機は、腟ケア指導士の資格を取得したことです。それ以前にも、さまざまな勉強や資格の取得を積み重ねてきていました。あるとき、ご縁があって受けた腟ケアの講座が、とても勉強になりました。私自身も腟ケアやセルフケアを実践していくうちに、自分の身体の調子が良くなっていきました。
この頃、生理用品も見直すようになりました。タンポンは大学生の頃から、量の多い日や水場に行くときだけ使ってきました。月経カップの存在も知っていましたが「人によって合う・合わないがある」という話を聞いていたこともあって、自分には関係ないと思っていました。
その考えが変わったのは、助産師の友人がSNSで月経カップを勧めるようなコメントをしているのを見かけたことです。その友人に会ったときにくわしく聞いてみたんです。それを聞いて、私も使ってみたいと思って、ネットで調べて、murmoを見つけて購入しました。使いやすさや快適さを感じて、日常的に愛用しています。
低用量ピルは、今は飲んでいません。セルフケアを続けるようになってから、飲まなくてもいい生活になったと思えたからです。使わなくてよくなったのは、私の身体が変わっていったからだと思っています。
今、産科クリニックで働きながら、助産師や腟ケア指導士として、発信活動もしています。これまでの3000人を超える女性のサポートをしてきた経験や専門的な知識、そして自分自身のこれまでの経験を伝えています。
生理をふりかえって、いま何を思いますか?
今回、これまでの生理や人生を振り返ることで、改めて自分と向き合うきっかけになりました。
「自分って意外と頑張ってきたんだな」と感じて、もう少し自分を褒めてあげてもいいのかもしれないと思えた一方で、もう少し自分に余白も必要なのかなと感じました。
また、「私にとって生理とは何だろう」と考えた時に、やはり身体のバロメーターだなと改めて感じました。女性にとってとても大切で、どこか神秘的な存在でもあり、ホルモンに左右されることも含めて、自分の身体と向き合う大事なサインなんだなと思いました。
以前は、生理を少し面倒に感じることもありましたが、年齢を重ねる中で、生理がある今の自分を大切にしながら過ごしていきたいと思うようになりました。
生理があることで自分の状態に気づけるからこそ、生理が終わるその時までしっかり自分の身体と向き合い、その後も自分の身体を大切にしながら付き合っていきたいと感じています。
助産師として活動しているからこそ、これまで自分自身が感じてきた悩みや人には聞きづらかった生理の悩みを今度は私が代弁していけたらと思っています。 もっと多くの女性が、自分の身体や生理と向き合いながら女性としての人生を楽しめるようなお手伝いができたら嬉しいです。
注釈:「わたしの生理」では、いろんな世代・環境の方が、生理とどのように向き合って暮らしてきたのか記録し共有することで、隠されがちな生理を考えて話すきっかけにしたいと取り組んでいます。特定の商品やサービスまたは対処法を推奨するものではありません。掲載されている内容はその方個人の体験ですので、感じ方には個人差があります。気になる症状などがある際はご自身で医療機関にご相談ください。